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堀内昭利という為替ディーラー

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最近、伝説のトレーダーや凄い相場師を調べているのですが 堀内昭利さん
凄いので載せちゃいます♪ パッと見・ふつーのおじちゃん(失礼)ぽいけどなぁ

堀内昭利 プロフィール
1949年東京生まれ。巣鴨高校卒業後、米国留学。1972年に米国ミズーリ州オザークス大学卒業後、週刊誌、材木商に3年勤務。1975年にスイス銀行に入行。東京最強の外銀に押し上げる。1983年にドイツBHF銀行に転職し、資金為替部長、東京支店長を歴任。同行東京支店を東京の為替トップ5に押し上げる。1997年同行東京撤退により、退職。同年にAIAビジネスコンサルティング株式会社を設立し、代表取締役に就任。為替相場歴35年。日本で最古参の現役為替ディーラー

では、続きを表示するをクリックして下さい 尚・内容は素敵なぐらい引用してます


堀内昭利ヒストリー

競馬にのめり込んでいた親父が給料日に一銭も家に入れず、泣いていたおふくろの姿が子供心に強烈な印象だったのだろう、今でも思い出す。おふくろは、当時としては珍しかったお茶とお花の先生であったにも関わらず、家はボロ家で、弟子など取れる状況ではなかったので、野村證券のセールスレディーをやっていた。

今になってみると、目黒駅前の文房具屋まで売り払う羽目になっても競馬を続けるほど徹底していた親父はすごいと思える。血筋なのかもしれない。なにしろ祖父は米と株の信用取引で大損をして、裕福だった堀内家の田畑と家を取られ、静岡から東京に出て来ている。こうしたことを考えると、為替の相場師の道を私が歩むことになったのも何ら不思議ではない。

人生初の分岐点は高校3年のときに訪れた。学校の帰りに本屋で学研の「高3コース」を立ち読みしていたら、アメリカの大学留学の案内が出ていた。英語と国語の平均点が90点、数学と物理の平均点が30点といういびつな頭だった私は、これはチャンスのように思えた。大学の学費、食費、寮費すべて無料なのも魅力的だった。

留学制度のスポンサーで、日本一のいびきの大家である池松武之亮先生の面接を受けパスした。最終選考は、アメリカ大使館の女性による英語の口頭試験だった。あの当時アメリカ人と面と向かうなど恐怖でしかなく、頭の中は真っ白になってしまい、合格が危ぶまれたが、3人の留学者の一人に選ばれた。

68年5月、ミズーリ州、スプリングフィールドのオザークス大学での生活が始まり、それは必死で勉強した。アメリカ人の学生と違って、こちらは落第したら追放される身で、卒業もしないで帰国したら2度と町内を歩けないプレッシャーを羽田空港での送別のときに感じていたからだ。

金欠病には泣いた。両親が手紙に1ドル札や5ドル札を同封してくれるのだが、何せ日米の給料の差は5倍とか10倍といった感じだった。しかも1ドル=360円。三井銀行からの送金は、手数料が上乗せされてなんと400円換算になっていた。

生活費稼ぎのために、寮のミーティング・ルームで週末夜を徹して行われていたポーカーに参加するようになった。そのポーカーで次第にのし上がり、ナンバー2にまでなった。金がなくて勝負を賭けているのだから、絶対に負けられない背水の陣だった。相手に金がなければ、背広でも教科書でも何でも取り立てた。

卒業を翌年に控え、シカゴに工場をつくる計画で留学生を募集していた日立製作所の面接に行く予定になっていた。ところが、ニクソンショックが起こり、日立もこのあおりを食ってしまう。歴史的な為替のビッグイベントで日立への就職のチャンスを逸してしまったが、後に為替ディーラーになるのだから不思議な巡り会わせだ。

卒業までに仕事は決らず、いつまでもアメリカにいられないので、帰国し就職活動をスタートした。日本の学生よりはるかに学問をしてきているのに、日本の大学を出ていないからというだけで門前払いをされる。なんとか小さい株の雑誌社に入社し、半年間働いた後で、大学時代の先輩の口利きで材木商に勤務していたある日、日経新聞の「ディーラー募集、スイス銀行」の求人広告を目にした。

面接したスイス人のトニーという支店長が私の履歴書の中で、大学時代のポーカー会の副会長という部分に着目し「これはディーラーにぴったりだ」と言った。

ポーカーに勝つには、いい手を作ろうとするのではなく、いい手があるように見せなくてはならない。つまり相手をブラフ(脅迫)することがポーカーのコツなのだ。相手が弱気の心理になっているときに攻めるか、自分が強気になり過ぎているときに墓穴に入るとか、非常に心理ゲームだ。そこが相場に相通じる。

75年4月、入社の日、その後浅からぬ縁を持つことになる中山茂くん(以下、チャーリー)と出会った。彼が後にディーリングの道に進むのは少なからずとも私の影響があったのだと思う。

当時スプレッド(売りと買いの差)が10銭なんてまだよい方で20~30銭の開きなど当たり前だった。荒れると「291円10銭買い」「291円60銭売り」なんてよくあった。それでも突っ込んでいったのは、男は度胸だった。そのせいか、ゴルフに行くと、よくキャディーに築地の魚屋に間違えられていた。

半年ほど経って、パニック症候群に罹った。この病から逃れるには今のディーラーという仕事を辞めるか、一生この病と付き合っていくしかないと医者に宣告されたが、私はこの病が一生治らなくても、ディーラーを続けようと決意した。


チャーリーは、極めて弱い内面を持つ私が、それを克服してこの世界でやってきていることに対して一目置いてくれている。私から見ると彼は非常に芯が強く、また日本人であれだけ物事を白黒ハッキリつけられる人間は多くはいないと思っている。

当時からスイス銀行の本支店には、名うての為替ディーラーが大勢いて、世界でもトップ5に入る活発な銀行だった。この優秀なディーラーたちには、中卒や高卒で入ってきた職人のような連中も多く、日本の銀行とは全く異なるプロ集団だった。

こういった環境の中で、スイス人の部長や日本人の課長の右腕として働いたことが、後年大きく役立つことになる。そして、目の前でドルがひたすら落ちるのを見て、初めて相場の醍醐味を味わうことになった。

電話で話しているときに、他の電話を切って、かつ他のディーラーのしゃべっているのを適当に聞いていたら、欧州の為替の世界では3本指に入っていた本社のヘッドのバシュナゲルさんに「ディーラーというのは耳を4つ。最低でも3つ持っていなければならない。電話のベルが2度なる前に取れ。2つの電話で話すのは当たり前。なおかつ周りで起きていることにも気を配らなければならない」と忠告された。

いつ、どこに重要な情報や緊急の情報が流れるのかわからないから、常にアンテナを張っておけということを意味する。彼から言われたことを深く感じ入り、私も自分の部下に同じように指導している。

78年から自分で円の相場を張るようになった。本来ならば儲けたところで、さっと手を抜き、勝ち逃げに持っていくのがよいのだが、勝ち逃げを覚えて確立できるようになるまで10年超の年月を必要とした。

どんな人でも常勝はできない。どんなに勝っても、やはり負けるときもやってくる。多くの人がその大金を維持できずに、散らしてしまう。勝負は時の運なので、勝てるときに徹底的に勝つということは大事なことなのだ。

段々と儲けられるようになり、とにかく儲けるものだから上司も黙っているしかなかった。私としては勝てば官軍の錦をいつもちらつかせていた。慢心している私に鉄槌を与えることができるのはマーケットしかなく、とんでもない罰を受ける羽目になる。

東京市場のプライスリーダー

当時の東京市場の1日の出来高は10億ドルくらいと小さかった。その中で私は常に3,000~5,000万ドルの玉を抱えるようになり、売ったり買ったりの頻度は目立ってきた。他のディーラーたちの本数とは桁が違った。ひどいときは市場の出来高の8割は私が絡んでいるようになり、マーケットのプライスリーダーになっていった。

スポット(直物)取引を制しただけでは飽き足らず、スワップ取引にも手を伸ばした。当時は直物市場並みに、スワップ市場も1日1円動いたり、スプレッドの10~20銭はザラだった。自分はスワップ取引も数字の勘だけで勝負に出た。アメリカは短期間で頻繁に金利を動かしていたので、当然相場は荒れていた。

自分の提示したレートはすべて叩かれた。ドテンしてディスカウントからプレミアムの方向に賭けるつもりだったが、スプレッドはとてつもなく大きく広がってしまっていた。結局全部ひっくり返すことはできたが、損失は6億円だった。この相場が日米の金利差だなんてことを知ったのは後になってからのことで、今もって恥ずかしい話だ。


辞表を提出したが、上司から残るよう説得された。減俸処分が言い渡され、反省の顔をしていたが、心の中ではファイティング・スピリッツに燃えていて、7月から強烈な勢いで損を取り返すことにした。3ヶ月で12億円を稼ぎ出しすべての損を取り戻した。このときの3ヶ月で12億円の稼ぎの記録はディーラーを辞めるまで破れなかった。

チャーリーがヒタヒタと私の後ろを走り始めていたのはこの頃だった。当時は業界で一番私の名前が出ていたから、彼は私を抜いて上に行きたいという気持ちは強かったのだろう。やはり目標があると人間は強い。先を走るよりもだれか前にいて、その後を追いかける方が楽なのだ。ふと気がつくと彼は私を抜いており、先頭に立ってしまっていたのだった。後年私がハングリー精神を失い、また初心を忘れ、勝てなくなったときに一番イライラしたのは彼だと思う。

83年1月、7年間勤めたSBCからBHF銀行(以下、BHF)に移った。初めて自分のディーリングルームを創れる喜びに満ち溢れていた。自分が稼げばすべてうまくいくと考えていたので、完全に独裁制にした。銀行本来の業務であるローンや輸出入などのビジネスが最初からあるはずがなく、全員が私のギャンブル収益に頼るといったいびつな経営形態だった。

伊藤忠が一番最初のお客だった。私の相場観が他の銀行と違うので面白いという理由だけで、久保田進也さんが始めてくれた。伊藤忠のように実戦部隊に銀行を選ばせるような会社は少なかった。それだけ久保田さんに実力があったのだろう。手数料は1銭もらっていた。邦銀は日本の会社から何十銭と手数料をもらっていた。

久保田さんの私の使い方は「今いくらくらい」「市場は(137円)85銭買い90銭売りです」「85銭の買い玉はどのくらいありますか」「全ブローカー合わせて13本(1,300万ドル)です」「じゃそれ全部売って」「売れましたけど」「80銭の買いはどのくらい」「15本」「それも売って」この調子で70銭くらいまでの買いをつぶす。今日のドルは弱いと伝えてあるので、彼はそれに乗ったのだ。久保田さんは私がこの玉に売り乗せて儲けたと思っていたらしかったが、私は彼の分しか売っていなかった。

基本的に稼ぎは自分で相場を張って儲けるという考え方で、客の玉は手数料だけにするということにしていた。何しろ他の大銀行と同じ事をやってもかなうわけがないので、私は私のやり方に固執するしかなかった。

集積の中


85年9月22日のプラザ合意は今でも鮮明に記憶している。何か動きがおかしいというか変な匂いを感じ取っていた。このときにおかしいと匂うことがディーラーとしてのセンスみたいなものだと思う。24時間相場のことを考えていなければ、いわゆる勘の力は育たない。

様々な経験を積んでくると、感覚が研ぎ澄まされる。集積の中から勘ができる。ただ経験を積んでも分からない人は分からない。経験が10教えてくれるとしたら、それを、2しか受け入れられない人と8受け入れられる人とでは、大きな差になってしまう。

当然売りに回った。じっと売りっぱなしにしておけば、ひたすら莫大な儲けになったと思うが、ガタガタ崩れたかと思うと、突然張り倒しに来るような買い攻勢が出たりして、乱高下し始めた。欧州、ニューヨークが参戦するに従い、ひたすら雪崩のような売り物を浴びてまさに暴落を演じることになった。

24日、休み明けの東京市場オープンと同時に、欧米人と逆の発想で日本サイドはドルを買いたい輸出企業などが殺到し226円から232円台まで今度は急反発した。ここ何日かの動きに恐怖を感じたディーラーたちも多かったが、私にとっては得意中の得意の相場展開だった。

この後199円まで落ちるのだから、226円で売って232円までかつがれても、持ち玉を放置しておけばいいじゃないかと考える人もいるかもしれないが、この日は買いで回転を効かせるべきなのだ。もしくは煩雑な動きの中で飛び乗り、飛び降りを繰り返せばいいのだ。232円で反転が止まるという確証などない。


 ディーラーはそれぞれ相場の張り方が違う。チャーリーの張り方は、例えばこの下げ相場だと、237円で取りあえず売る。235円に行く。喉から手が出るくらい買い戻して(私は買い戻してから再度売り場を狙う)利益をふところに収めたいと思う。しかし、彼はその誘惑を断ち切るためにこの235円をさらに売り乗せる。233円に行く。彼はそこでまた目をつぶって売り乗せる。

チャーリーの場合、正念据えて売りだったら売りにとことん徹する。それが買い相場になってしまったら一切やらない。彼は、長期的なスパンで物事を見る目は日本人で一番だと思う。これができるのはやはり日々の勉強の賜物に他ならない。

本店の専務シュパナーさんは欧州為替界で帝王と評され、私も、あのチャーリーですら非常に尊敬していた全ディーラーの鏡のような人だった。私がBHFに入行してから、彼は引退するまで売り方にしか回らなかった。でもドルはひたすら歴史的に落ちていくのだから大局観はズバリだった。3.20マルクくらいから売りに回っていた彼は、3.30マルクと3.40マルクでも売り乗せしていた。マルクは上げ続け3.45まで入ってしまった。


しかし、ドイツ連銀が売り参戦して来たので、ドルマルクは急落し始めた。当時からドイツ連銀の介入のタイミングは絶妙だった。日銀、大蔵省(現財務省)の介入の仕方があまりにも素人っぽくひたすら玉を打ち込むのに比べ、ドイツ連銀は出るかなと思っていると出なかったり、肩透かしはよくするし、最小の玉で最大の効果を挙げることが多かった。

3.05まで落ちても彼は買い戻さない。普通の神経ではあれほど苦しめられた玉なのだから、やれやれで買い戻すものだが、「アキ、相場は明らかに落ちたがっている。今度は買い方が苦しんでいる。俺が買い戻して、買い方を助けることはなかろう。それは反論理的なことで正当化されない」と言う。確かにそうだが、それを実行できる人は少ない。彼は4ヶ月後に2.80マルクで買い戻した。

アメリカ人では元マリーンミッドランド銀行のトニー・ブスタマンテがピカイチだろう。この人は私に近いやり方をするが、同じ短期勝負でも私のよりもう少し長い勝負をやっていた。

あるとき、私はドルマルクの取引で買いに回っていた。相場は下げ相場でやられていた。彼は「ちょっと待て。スクリーンの動きをよく見てろよ」と言って電話を切った。5分程待つと突然ドルマルクが上昇し始めた。彼が買い上げたのだ。70ポイントくらいだったが、あの静かな相場であそこまで持ち上げるとは、並大抵のことではない。心底驚いた。

こういった相場界の猛者たちと知り合えたことは私にとって大きな財産になった。侍と同じで相手の力量が分かるとお互いに一目置いて、切磋琢磨をしようと考えてくるものだ。自分よりできるディーラーと接触しなければ駄目だ。自分の力量も上げないと相手をしてくれない。


ディーラーと管理職、相反するもの

相場の世界にはとんでもなくできる人たちがいる。どうひっくり返ってもかなわない達人たちがいる。それは圧倒的に欧米にいる。日本の金融機関でそれほど優れた人が現れないのは、昔から金太郎飴的教育だからだ。そして日本は出てくる者はつぶしてしまう。だから邦銀では為替のスタープレイヤーはいらないし、第一育てる必要もないと思っている。

邦銀のディーラーが一生懸命やっていても、ただ、日本の金融機関自体がリスクに対する考え方が違う。貸し出しはパーになるかもしれないので、為替のビジネスに比べたらはるかにリスクが高い。しかし、日本の銀行の上層部は、為替の方がリスクが高いと思っている。そのリスク感覚が違うのだ。


私がこの欧米人たちに負けたくないと言うのも、相手が強いからだ。彼らの多くはこの仕事に強烈なプロ意識を持っており、私が銀行を辞めてからも、付き合いが変わらないのがこの外国人たちだ。個人というものを極めて大事にする。

92年待望の支店長に昇格した。管理職とディーラー、この2つは相反するものだ。根っからの現場のディーラーには上層部の政治ゲームや出世争いなど得意なわけがない。マーケットでの実力を経営での実力と勘違いするからだろう。私も自分の部屋をもらい現場から離れるにしたがって、市場の放つ匂いが感じ取れなくなり、勝てなくなっていく。

94年になってドルが次第に落ちてきたが、当時、自分はドル円の100円以下は信じていなかった。だから、102~3円で50本(5,000万ドル)ロングにした。このときはソロスファンドのドル売りは強烈で、アッと言う間にドル円は急落して行く。しかし、私は95円くらいまでドルを買い続けた。

自分はロングのときは駄目だったら、ドテン売りに回る。いつもこれをやるときはだれにも負けないタイミングでやっていたのだが、このときは完全に出遅れてしまった。この勝負はもう負け戦だと分かっていて、どこで撤退するかの見極めが大事であるにも関わらず、リングにタオルを投げなかった。負けているときに全力を尽くしてはならない。退却も大事なのだ。

そして、もうひとつ、このときは第三者的に物事を見ることができなかった。相場が動いている最中は熱狂していてもその裏で非常に冷めた部分を持っているのは、前出の優れたディーラーたちの共通点でもある。

結局、私は本店から強制退場処分を言い渡されていて、ドル円が80円を割れていく95年の大相場に向けて思いっきり戦うことができなかった。80円は大底と予想していたので勝負できなかったのは、今でも大変悔しい。

FX投資家へのアドバイス


まず最初にFXをやっていくことの目的がはっきりしなくてはいけない。儲けることなのか、相場を楽しむことなのか。仮に、5,000万儲けた人がいるとすると、その人がさらに大きく稼いでいく。これで10億儲けたいことが目的なのかどうかはわからないが、それで全部の儲けを素っ飛ばすような勝負をしてしまってはいけない。

私は地獄を幾度となく見てきている。でも、35年間やっている。これが大きい。勝ち残る、勝ち続けるという継続性がすべてだ。そのためには、ディシプリン(自己規律)を持ち自己管理をしなくてはならない。自分も若いときは無茶をやってきたが、そこから得た結論というのは、ディシプリンしかない。

一生懸命に良いディーラーになりたい、稼ぎたいと思っている人たちが、私より経験年数が少ないのに、私より相場を見る時間が少なければどうするのか。35年やっている私が長時間見ていて、なおかつ、唸っていてわからないのだ。そんな生半可な気持ちではできないという点からも、相場で飯を食いたいと思っている人の95%がマーケットから去らなくてはならないと思っている。


個人投資家もそこまでのレベルを目指さすくらいの気持ちでやらなくてはならない。逆を言えばそういうふうに目指すから楽しい。ただ儲ける手段だったら、株でもカジノでも宝くじでもいい。何も為替の道を選ぶ必要はないはずだ。
多くの人が大相場になると怖くて手を出さず、どうでもいいゲリラ戦のよう小相場に手を出す。小相場の方が簡単で儲けられるという錯覚をもたらすからだろう。ところが大きく稼げるのは大相場だ。ゲリラ戦では負けても小銭なので何ども失敗を繰り返し、再起不能となる。最初は、怖くて何もできないかもしれないが、こういうことを経験してくるうちに、段々と手が出るようになる。一生懸命やるべきは怖そうな大相場なのだ。

完璧を求めるのは正しい姿だが、完璧をまっとうすることはほとんど不可能だ。しかし、相場を張る中でそのような経験をしていく、そのような考えをするということが大事。それこそが「相場を張る醍醐味」なのだということを自覚してもらいたい。「相場道」を極めることが、相場の醍醐味を味わうということを頭に入れておきたい。


生まれ変わってもまた為替ディーラーになる

生まれ変わってもまた為替ディーラーになる。何のためらいもない。好きだから同じ人生でもいいとさえ思っている。でもそこまで好きでやったって勝てないのだ。続けてはいるけれど、生き残ってはいるけれど、巨万の富を生んだわけではない。ここ5年程、巨万の富を生むことになんの意味があるのだろうかと疑問に思うようになり、儲けたい、大儲けしたいと考えないようになったら負けなくなってきた。

以前は、負け戦は認められなかったのに、今では素直に認めることができるようになっている。そのせいか、最近ではドツボにはまることははるかに減ってきた。

現在の私の煩悩はもうすべて相場に結びついている。利食わないで我慢できるか、損切りはいつできるか、なぜここでカットできなかったのか、なぜここで攻められなかったのか、なぜ自分はこういう勝負ができなかったのか。四六時中こんなことばかり考えている。

相場と長く対峙していると、哲学的な発想になっていってしまうのは仕方がない。やはり相場は、アダム・スミスの『国富論』にある「神々の見えざる手」によって動かされている気がしてならない。最近では、すべての相場は堂々巡りのように感じられる。


年齢を重ねてきて、相場に対する考え方に変化が現れてきている。トレーディングスタイルにしても、相場は緊張感の持続や集中力が大事だが、年齢と共に緩んでくる。だから以前のように短期の1~2時間のトレードはできなくなってきていて、3日~1週間単位の勝負になってきている。

だが、昔も今も、ひとつだけ変らないのは、すべての時間の90%は相場のことを考えているということだ。他の人はたぶん50%とか30%くらいしか考えていないかもしれない。そこが他の人と違うのではないかと思う。

一度しかない人生でそこまで情熱を注ぎ込めるものに出会えたということに大変感謝している。私自身、過去を振り返って、よくぞあのような心身ボロボロの悲惨な状況から、立ち直ってディーラーを続けてこられたと思う。どうしてだったのか、改めて考えてみると、その理由はやはりたったひとつしかない。厳粛に目の前に立ちはだかる為替の世界と勝負することがどうしようもなく好きだからなのである。


---終-----


長かったですね・・・(;一_一)ポーカーと為替ディーラー 通じるんですね 
心理戦と言う意味ではきっと、そうなんでしょう
それにしても、血筋と言うか成るべくして・為替ディーラーになったような方ですね
生まれ変わってもまた為替ディーラーになると言いきってるところがまた凄い
骨の髄まで相場師ですね
為替ディーラーの真髄味わせて頂きました。

今後も凄まじい相場師を少しづつ載せていこうと思います。





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