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北朝鮮イエス:主体キリスト論に向けて

「朝鮮の空で朝鮮のイエス、朝鮮のキリスト様を信じましょう」

この表現は、金日成主席が朝鮮のキリスト教徒たち に残した言葉として有名だ。この陳述を主体神学の基本命題としようとする。韓国の福音主義キリスト教徒らは、宣教戦略から北朝鮮の主体思想を克服の対象と 見ているが、主体思想は単純に理念の差異を越えて、北朝鮮の土着文化宗教であることを認めるべきである。
したがって初期の西洋宣教師たちの、韓国土着文化 不定の悲劇を反復しないために、われらは主体神学の重要性をまさに認識するべきである。

現代神学でも、2000年前の歴史 上のイエスを完全に復元することは不可能だとみている。したがってイエスを存在論的にだけ理解しようとすることは、時代精神に符合しない。後期、現代社会 にさしかかりながら、西欧神学の正統主義神学者を自任する人物たちも、イエスの存在を現在では象徴的に、隠喩的に解釈することに大きな煩悶を感じてはいな い。
別の言い方をすれば、イエスの精神を再現して(recurring)生きていく逆動的な運動の中に、イエスの磔刑の中に、イエスは復活の霊として人間 の苦難のなかに、歴史のなかに実存しているものだ。
したがってこれからわれわれは、北朝鮮のイエスに会うべきなのだ。主体 思想の根本原理は、首領と党と人民の有機体的な政治生命体の共時性(Synchronicity)にある。

すなわち、主体共時的三位一体論だ。ここで首領 と党と人民の関係は、こんにち現代生態神学者らが口癖のように表現する内的関係性(inter-relationality)の関係だ。すなわち客体が単 独で存在出来ず、もっぱら非常に親密な関係性の中でのみ一緒に存在できるという、部分と全体の合一の原理である。
ここで合一とは、従来の専制主義式個人の 存在が否認される一つとして統合されることを意味するのでなく、一つ一つが関連して存在する質的な通典性あるいは関係的全体性(qualitative wholism or relational totality)を意味する。

主体キリスト論もこのような脈絡で再建され るべきものである。キリスト論と首領論が邂逅しなければならない。従来では首領論が単純に個人の権力世襲の道具としてのみ理解されたが、事実、首領論は北 朝鮮の特別な政治秩序の中で、全体の有機体的生命体の連結の輪として帰結されるための結果であり、単純な個人崇拝次元が助長された宗教性でない。

高 麗研究所のチョ・ドンジン教授は、今後の世紀は「民族と宗教の問題だけが残る」と考える。すなわち新民族主義は、その民族の宗教文化的固有性とともに相互 連鎖性(inter-connection)を持つということである。旧ソ連も15ケ以上の民族単位国家に分散され、チェコスロバキアもチェコとスロバキ アに分離独立し、ユーゴスラビアもユーゴとセルビアに民族分合し、カナダではケベックでフランス民族と英米圏の紛争や葛藤が終わらずにいる。北米ではいわ ゆる民族単位の複合文化政策として、全体社会が動いている。2000年代は「自由民族主義」の時代である。

韓半島の民族回 復運動の統一運動は、時代精神に符合している。ただし私たち宗教人の姿勢は、民族教会の形成のために正しい神学の定立を構築して行くことに、その責任があ るものだ。北朝鮮のイエスは金日成主席である、と明快に言いたい。しかしこの命題も、従来の西欧神学のドグマに陥るならば、やはり人間を抑圧する宗教教理 に過ぎないものである。主体神学者自体も絶え間なく躍動して変化し、人間を人間としつつ、人民が主人となる神と人間の宇宙的合一をなす、通典的な生命体と しての「神人間学」(Theohumanism)に進むべきなのである。

北朝鮮の開放時代を迎え、われわれは国際ビジネス マンのような、市場占有競争と同じ方法で北朝鮮宣教を行ってはならないのである。韓国に深くばら撒かれたセクト主義とキリスト教の腐敗性が、北朝鮮民族教 会設立にとって障害になることはないだろうか。民族分裂の哀痛な心情として、セクト的な利己心から自由に解き放たれるべきなのだ。そこで、私たち朝鮮民族 が一緒に出会う韓民族大祝祭の場面において、私たちキリスト教徒らはその清名な朝鮮の空で、朝鮮のキリスト様に感謝し、朝鮮のイエスに会い、また私たち各 自が朝鮮イエスの姿として昇華されなければならないのではないか。






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